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2016.08.05 » 11か月 前

毎日ニュースNo.628  危険な冬山(昭和41年)


山々はすっかり雪化粧して、厳冬期を迎えました。群馬県の天神平スキー場は、早くも色とりどりのヤッケを着て初滑りを楽しむスキーヤーがいっぱいです。休日ともなれば人の波でうずくまる谷川岳の入口土合駅。本格的な冬山シーズンを前にして11月だけでもう20人が尊い命を失いました。相つぐ山の事故に山登りを部分的に規制しようという動きが活発になり、群馬県では、「谷川岳遭難防止条例」を議会に提案しました。しかし何の不安気もない若者たちは、きょうも降りしきる雪をついて、積雪2メートルの危険な沢を登っていきます。

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2 件のコメント
  • 和彦 より:

    突然のコメント、失礼します。
    未だ、幼い頃から、ずっと疑問に思っていたのが、
    谷川岳のことです。
    夜のニュースを見ると、何か連日のように、谷川岳の
    遭難のニュースをやっていたような記憶があります。
    一の倉沢と言う言葉が印象的でした。
    問題は、この遭難死の、数の異常性です。何故、若者は
    吸い込まれる様に、死を覚悟で谷川岳に向かったのか。
    単なる、戦後の登山ブームでは、説明出来ない何かがある様な
    気がします。
    そんな資料があるでしょうか。

    • 大蔵 喜福 より:

      返事が遅くなり申し訳ありません。
      谷川岳の遭難が多い理由はいくつかあります。
      1).戦後の日本を元気付けてくれたマナスル登頂、その後の登山ブームは現在のような幅広い遊びが無い時代若者を魅了した。中でも、1960年代から70年代に掛けてはアクロバティックなロッククライミングがその最先端の山登りとして受け入れられた。特に東京から近く、交通費もリーズナブルなため首都圏の若者が集中した。この当時の中心的世代は戦中派と団塊の世代で、夜行日帰りで完結できる谷川岳は若者や休みの取れない社会人、勤労者層に大人気となる。そんな中、時間的余裕の無い無謀な登攀や天候悪化の中無理を承知で挑む若者が多く、より犠牲者が・・・。
      2).わが国では当時日本三大岩場と称されるところは、北アルプスの穂高岳滝谷、剣岳チンネとその一帯、谷川岳一ノ倉沢。ただし岩場として硬く、安定的な岩盤の少ないわが国の山岳の中でも、谷川岳が一番不安定な岩場と草付の泥壁が多く、60~70年代に外国から来た有名なクライマー(ガストン・レビファー等)はことごとく、谷川岳一ノ倉沢の岩壁を登るのを拒否した理由は『こんな危険な岩場は攀じれない」。何しろ岩と草つきの壁は、はがれたり、落石の巣であり、安全なプロテクションも少なく、若者は承知の上であえて挑んでいた。危険も乗り越える登山技術のひとつとしてとらえ、当たり前のこととして実践に移した末の・・・・犠牲。
      3).当時は社会人は優雅に登山をするエリート集団(大学山岳部など)に対抗意識が強く、海外登山を実現するためには、隊員に選ばれる必要性から、登山界に認められる最先端の登攀をせねばならず、冬期初登攀など未踏の壁が攀じ登る対象になった。自分を売るための行為で、ほとんどの若者が自分の実力以上の壁に挑んでいった。そしてスキルの無さから犠牲者が増えた。言い換えればみんな最先端の冒険登山を標榜していた。
      経済の成長期であったが、貧困や低賃金や地域格差は問題とせず、単純に『山が命』、生きる糧のような者も多かった。今のように山のジャンルで飯が食えるプロは成立しない時代だった。さらに言えば団塊人口の多さだ。今から思うとと雲泥の差、谷川岳に向かう首都圏クライマーは、最盛期の1970年代初頭で週末になると土・日に800~1000人が岩場に取り付き、各ルート、特に人気のルートは順番待ちの列ができた。遅い時間に取り付いた連中は、帰りは夜中になった。
      いくつもの要因が複雑に絡まって、約900名、世界で一番、遭難犠牲者のある山となった。(大蔵喜福)

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